ウルトラマン 金城哲夫・2 【~太平洋戦争 沖縄戦】

 映画にしても、小説にしても、音楽にしても、この時代・この瞬間にこの時のこの人がこの機会の元でなければ、作れなかった傑作というものがある。
 その後、どんなに技術が進歩しても、その人の技術がいかに向上したり、様々な経験を経ていても、(興行的な成功は別として)決して超えられないものが。

 思うに、作品と時代というものは、重要な関係を持っているのだ。

 さて、本論にもどりましょう。

 日本の転換期と金城氏の生涯をリンクさせて、考えて見たい。

 金城氏は、沖縄県出身、1938年(昭和13)7月5日生まれ。日中戦争が始まった翌年である。
 金城氏は、沖縄では名門の家庭で大切に育てられた。
 ご存知の通り、元々、沖縄県は、大和(日本本土)ではなく琉球王国という独立した国家であり、独自の言葉、独自の言語を持っていた。
 しかし、江戸時代の薩摩の侵略により半植民地状態となり、明治の廃藩置県により沖縄県として大和に吸収された。
 当時、日本の近代化に伴い、全国でも標準語の使用が推進されていたが、沖縄県では厳しい「言葉狩り」が行われ、標準語を使用することを強制されていた。
 金城家では、元々、日本語を使用していたため、金城氏は、模範生として褒められていたという。
 しかし、逆に、琉球の言葉をうまく使うことができなかった。
 これが、後々、大和と琉球の架け橋たらんとする彼の理想、いや、それ以前に、大和人でも琉球人でもないというアイデンティティの確立の大きな障害として立ちはだかり、彼を苦しめることになる。
 彼は、運動神経こそ恵まれていなかったが、生まれながらリーダーとしての才能に溢れ、容姿にも恵まれ、頭脳も明晰であり、学校では常にリーダー的な存在として頭角を現していた。

 しかし、時は太平洋戦争、1945年(昭和20)にアメリカ軍が上陸。
 「鉄の暴風雨」と形容される、凄まじい地獄が展開された。
敵は、アメリカ軍だけではなかった。
差別意識も手伝ったのであろう、本来、国民を守るべき日本軍による自決の強要、塹壕からの追い出し・・・日本軍からもアメリカ軍からも死をもたらされる狂気の状況。
そんな中、彼の母は、戦闘機の機銃により、片足を失っている。
加えて、彼の愛する妹は、空腹のあまり、傷んだ食べ物を口にして亡くなっている。

金城氏本人は、戦争経験について語ることはほとんどなかったが、心に凄まじい傷を負ったのは確かである。
後に、高校時代の先輩との酒の席で、突然、頭を抱え、大声を上げながら裸足のまま、半狂乱で外に飛び出したこともあったという。

 彼は地獄の戦場を経験した。この事実は記憶に留めておく必要がある。

 何故ならば、彼は後に、「ウルトラマン」「ウルトラセブン」をアメリカ帝国主義と非難され、沖縄での発言が自衛隊擁護と非難されることになるが、決して、戦争を賛美する人間ではなく、ただ、皆が手を取り合える平和な世界を、暖かな未来を夢見た彼にとって、アメリカと科学という存在を信じるしかなかったのだ。

[参考文献]
 ・金城哲夫 ウルトラマン島唄 上原正三・著
  金城哲夫 ウルトラマン島唄
 ・怪獣使いと少年 切通理作・著
  怪獣使いと少年―ウルトラマンの作家たち

[続く]

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